「猫のいる風景〜黒猫」



 猫がいる。真っ黒い猫だ。首輪も、鈴もつけていないから、恐らくはこの辺りに住む野良猫なのだろう。子猫というには大人びた、しかし成猫というにはまだあどけない風貌をしている。人間でいえば、ちょうど高校生くらいの年頃だろう。さっきからひっきりなしに肩からずり落ちてくる重い鞄、そして腕に抱えた花束と格闘しながら、望月教授はそう思った。

 黒猫は、電信柱の根元にできた日溜りの中で丸くなっていた。どうやら、暖かい日差しに誘われて、うつらうつらと居眠りをしているらしい。しかし、望月教授が近づくと、足音に気付いたのか、閉じていた目を開けた。時刻は午後四時、夕暮れというにはまだ明るい中で、黒猫の瞳がきらりと光った。ふむ、なかなか良い目をしている、と望月教授は思った。広い社会を身一つで生き抜こうとする若者の目、鋭い野生の目だ。ふむ、野良猫はこうでなくちゃいかん。望月教授は我が意を得たりとひとり頷く。そんな望月教授を、黒猫はらんらんと光を放つ瞳でじっと見つめていた。

 そして、望月教授がちょうど黒猫の前を通り過ぎようとした時だった。黒猫がおもむろに身を起こした。軽く伸びをして、望月教授のすぐ前、磨き上げられた革靴の爪先からほんの十センチばかり先を、するりと駆け抜ける。
 黒猫に前を横切られるとなんとやら、という迷信がある。思わず立ち止まった望月教授に、無事横断を終えた黒猫は、道の向こうからにゃあと挨拶をしてみせた。

 望月教授は、大学で教壇に立っている。週に二日、火曜日と木曜日に一回生を相手に講義を行っている。専門は西洋絵画、中でも後期印象派がお得意の分野だった。
 いつも微かに笑みを浮かべた温和な顔に、柔らかい低音の声、しかも昼過ぎの講義時間とあっては、起きて話を聞いている学生の方が少ないくらいだったが、それでも望月教授は毎週、分厚い画集と講義用原稿を鞄に詰め、電車で片道二時間かけて大学へと向かう。大学の教授となってはや三十年、講義にあたっての予習および準備は一度も怠ったことがない。学生の前に立つ日には、上着とズボン、そしてネクタイを自分で選び、革靴を丁寧に磨き上げる。自分の身なりは自分で整える、というのが望月教授のモットーだった。唯一の例外はシャツで、これはアイロンがけをする奥さんの管轄となっていた。

 望月教授は、奥さんのことを「和枝さん」と呼ぶ。お見合いの席で初めて出会った五十数年前から変わらぬ呼び方である。そしてもうひとつ、長年続けてきた習慣があった。望月教授は、その日の講義が終わると、大学内から奥さんに電話をかけることにしている。今日はどこそこの書店に寄るので帰りが少し遅くなる、とか、今日はまっすぐ帰るから家に着くのはだいたい何時頃になる、といった電話だ。奥さんは、電話から帰宅時間を計算し、夕食の用意をするのだった。
 望月教授は、いつも公衆電話から電話をかける。携帯電話をお持ちになったらどうです、と教授仲間からは勧められるのだが、あんなコードのないものは信用できん、というのが望月教授の持論なのだった。そして今日も、望月教授は公衆電話に向かった。

“はい、望月でございます”
「ああ、和枝さん。私です。今日はこのまま帰るから、六時過ぎには着くと思いますよ」
“はい、分かりました。ところで、今日のお夕飯、何か召し上がりたいものはありますか? まだ献立が決まらないんですよ”
「ふむ……。魚の煮付けなんかいいですな。そうだ、鰤大根がいい」
 電話の向こうから、ころころという笑い声が聞こえた。
“確か、一週間前の今日にも同じことをおっしゃいましたよ。魚が食べたい、鰤大根にしてくれと”
「そんなことを言いましたかね? とにかく、お願いしますよ」
 はいはい、とまだ微かに笑みの残る声で答え、奥さんは電話を切ったのだった。

 帰りの電車の中で、望月教授はさっき出会った黒猫のことを考えていた。あの猫は、私の前を横切った後、確かにこちらを振り向いてみせた。ご丁寧にも、にゃあと鳴きさえした。まるで、例の迷信を知っているかのように、知った上で人間をからかっているように。
 望月教授は顎に手をあてて、ううむと唸った。これは、もう一度確かめてみなければなるまい。しかし、猫は気紛れなものと決まっている。果たして、また会う機会があるだろうか。もしも、どこかであいまみえることがあれば、と望月教授は思う。今度はひとつ、逆にこちらが黒猫の前を横切ってやろう。さて、あの猫はどんな顔をするか。自分の思いつきが気に入った望月教授は、ひとり楽しげに微笑んだ。

 家に着くと、奥さんは食卓に夕飯のおかずを並べているところだった。炊飯器からは、炊きたて御飯の甘く柔らかい香りが立ち昇っている。奥さんはいつも、望月教授ができたてのおかず、炊きたての御飯が食べられるよう、夕食を整える。その精密な時間配分は、もはや職人芸の域に達していた。望月教授がただいまと一声かけて、着替えのため自室に入る、その時間さえきちんと計算されているのだった。

 部屋に戻った望月教授は、まずコートと上着をハンガーにかけ、ブラシでほこりを払う。そして、ポケットからハンカチと電話用の十円玉をじゃらじゃらと取り出す。部屋着に着替えた望月教授は、シャツを綺麗に畳み、ハンカチとともに風呂場へ持っていく。そして、洗濯機の底に畳んだシャツの形が崩れないようそっと置くのだ。どうせ洗濯するのだから、くしゃくしゃのまま放り込んでもよいのだが、几帳面な望月教授は、なんとなくそうしなければ気が済まないのだった。

 食卓につくと、望月教授はまず自分と奥さんの分のお茶を淹れる。そして、二人分の御飯をお椀によそう。これもまた、五十数年来変わらない、望月家の食事風景だった。お茶を飲もうとした望月教授は、ふと食卓に並んだおかずに目を留めた。大きめの器に、ふろふき大根が盛り付けられている。望月教授は、台所から出てきた奥さんに声をかけた。
「和枝さん、今日は鰤大根じゃないんですか?」
 いいえ、と言いながら、奥さんは澄ました顔で手にしたお皿をことん、と望月教授の前に置く。お皿に載っているのは、焼き魚だった。
「今日は、ふろふき大根と鰤の塩焼きですよ。お腹に入ったら、同じことじゃありませんか」
 ふむ、と望月教授は頷いた。鰤大根ならぬ、鰤と大根、というわけである。お茶を啜りながら、望月教授はふと、あの黒猫は夕飯にありつけたのだろうか、と考えていた。

 いつの間にやらすっかり春めいてきたものだ。いつもの帰り道をのんびり歩きながら、望月教授は思った。天気予報では、昨日の晩から大雨だと言っていたが、夜の内に止んで良かった。今日は、大学の卒業式だった。もちろん、望月教授も教えたことのある学生たちである。居眠りばかりしていた学生、毎回質問に来た学生。見覚えのある顔を見つける度、望月教授の顔には穏やかな笑みが浮かんだ。毎年、望月教授は必ず卒業式に出席する。そして、かつて自分の講義を聞いていた学生たちの門出を見届けるのだった。

 望月教授は、コートを脱いで腕に持ち、水溜りを避けながらゆっくりゆっくりと歩いた。そうしながら、通いなれた道の風景をひとつひとつ脳裏に刻み付ける。この道を歩きつづけて三十年、周りの景色はずいぶんと様変わりした。昔は、右を向いても左を向いても田んぼと畑ばかりが目立ったものだ。それが今では、学生マンションやコンビニエンスストアが建ち並び、ほんの一角に小さな野菜畑が残るのみだ。物思いにふけりながら、猫の額ほどの畑に目をやった望月教授は、そこに例の黒猫の姿を見つけ、立ち止まった。

 黒猫は、畑の周りに張り巡らされた水路の縁に片方の前足をかけ、動きを止めていた。何をしているのだろう、と望月教授は首を傾げた。黒猫は、じっと目の前の水路を見つめているようだ。黒猫の視線を追って水路をのぞき込んだ望月教授は、なるほどと頷いた。昨夜の大雨の影響で、水路がいつもより増水している。黒猫は流れの速さに恐れをなし、水路を渡れずにいるのだ。生意気そうな顔をしていても、まだまだ子どもらしさが抜けぬということか、と望月教授はくつくつと笑った。
望月教授の笑い声に、黒猫がつと顔を上げた。あの時と同じく、瞳がきらりと光った。しかし、前に進むことができない。望月教授は、精一杯胸を張って、大またで歩いた。
 そして、こちらをじっと見つめている黒猫の前を横切った。

 更に数歩先へ進んだ望月教授は、黒猫の様子を見ようと振り返った。黒猫は、さっきと同じ姿勢のまま、顔だけを望月教授の方に向けていた。心なしか、悔しそうな表情をしているような気がする。これで引き分けだな、と望月教授は心の中で黒猫に語りかけた。この道を通る最後の日に、もう一度君に会えて良かった。
 望月教授は、この春で大学を退職する。黒猫に初めて会ったあの日は、望月教授最後の授業の日だったのだ。そして今日、卒業生を見送った望月教授は、長年通った大学に、別れを告げてきたのだった。
 黒猫は、まだ望月教授の方を見つめていた。望月教授は、黒猫に軽く片手を挙げてみせた。元気でな、最後にそう呟いて、望月教授はゆっくりと歩き始めた。

【THE END】



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