「贋作 小さい秋見つけた」 ![]() ![]() ![]() ![]() これから私が披露するのは、ある年老いた風読みの物語である。 語り手の義務として、まずは私の正体を明らかにしておくべきであろう。我が名はアーネスト十九世。ある屋敷に仕えた園丁の名を継ぐ一族の末裔である。人間の言葉で言うならば、私は団子虫と呼ばれる種族の一員である、ということになる。 さて、ここで疑問に思う方が出てくるやもしれぬ。なぜ、どうして、一匹の団子虫風情が、僭越にも語り部など務めようとするのか、と。その理由について、ここで詳らかにするわけにはゆかぬ。今はただ一言、友との約束を果たすためである、とだけ言っておこう。 かの友への親愛と尊敬の念の証として、私は語ろうと思う。私のごとき小さきものの声に耳を貸そうというおつもりがあるならば、読者諸氏よ。どうか最後まで、我が微かな声を聞いていただきたいと、そう願うものである。 全くもって、平穏を絵に描いたような秋の昼下がりだった。穏やかな陽射しに誘われ、私は真っ赤に染まったはぜの葉の上でうとうと居眠りをしていた。そこへ、前触れもなく突風が吹き付けたのだ。巨人の大きな手で掬い上げられるかのような風だった。あまりにも突然のことに、私はただ木の葉の上で足を踏ん張り、成すがまま舞い上げられるより他なかった。 しかし、それがかえって良かったのかもしれない。いつものように小さく丸まって危機から逃れようとしていたならば、身を守るどころかあっと言う間に虚空へと放り出され、どことも知れぬ場所まで吹き飛ばされていただろう。不幸中の幸いというやつだ。ここがどこだか皆目見当がつかぬのは心許無いが、しかしこうしてまた無事平らな地面を踏みしめることができた幸運を、感謝しよう。共に飛ばされてきた、戦友とも言うべきはぜの葉に心の内で祝福の言葉をかけてから、ようやっと人心地ついた私は、ことによるとこの先自分の住処となるやもしれぬ場所の偵察に向かった。前方には、ガラスが半分割れた窓がぽっかりと開けている。恐らく、私はあの窓の破れ目からここへ飛び込んできたのだろう。日暮れ直後のような、あるいは夜明け直前のようなはっきりしない薄闇に包まれた中、窓の形に切り取られた秋の風景は、まるで切って貼ったかのように、よそよそしく見えた。 「おい、そこの小さいの」 突如として頭上から降ってきたいかめしい声に、私は完全に不意をつかれた。今度こそ団子のごとく体を丸めてやりすごそうとしたが、しかしすんでのところで思いとどまったのは、ひどく楽しげな笑い声が続けて聞こえてきたからだ。 「聞こえんのか。お前は誰だと聞いておる。名は無いのか?」 名ならば、もちろんある。それも、何代にも渡って受け継いだ、由緒正しき名だ。その名を問われておきながら、ここで怯んでは先祖に申し訳が立たぬ。私は、どこにいるのかも分からぬ声の主に向かって、精一杯威厳に満ちた名乗りを上げた。 「私は、アーネスト十九世。園丁アーネストの名を継ぐものである」 途端、ぴたりと笑声が止んだ。 「ほう……園丁アーネスト、か……」 苦いものでも噛み潰したような低い呟きがどこか高いところから聞こえてきたが、やはり何者の気配もない。私は少々不安になり、更に大声を張り上げた。 「そちらこそ、何者だ? 姿を見せぬとは、卑怯ではないか?」 「……ふん。姿が見えぬのはお前の視野が狭いからだ。這いつくばってばかりおらずに、たまには上を見ろ。これまでとは別の世界が広がるかもしれんぞ」 人を喰った物言いに、何を、と鼻白んだものの、私のちっぽけな体では視界に限界があるのも、哀しいかな事実である。馬鹿にするような口調に従うのは気に入らなかったが、しかし憤慨よりも好奇心の方が強かった。私は、ちょうど手近に転がっていたブロックによじ登り、その上に突き刺さった鉄の棒を伝い、さらに続く鉄板の壁に這い上がった。やっと頂上まで来たかと一息ついた途端、先ほどの声が目と鼻の先から聞こえてきて、私はせっかく登りつめた高みから転げ落ちそうなほどに驚かされた。 「どうだ。お前がいつも見ている世界とは、比べ物にならんだろう?」 ガラスの割れた窓の隙間から吹き込む風に、耳障りな軋みと共に足元が揺れる。恐る恐る見やった視線の先に、湿気を帯びて曇ったビー玉の目と、錆びた鶏冠が見えた。そこでようやく、私は今自分がいる場所と、先ほどから言葉を交わしていた相手とを、正しく認識した。 私は、風見鶏の背の上に乗っていたのだ。 「しかし、どうしてまたこんなところまでやって来た? ……ああ、そうか。今日は風が強いようだからな。大方、呑気に昼寝でもしている間に飛ばされてきたのだろう」 相変わらず意地の悪い口調の風見鶏に、私は返す言葉もなく黙り込んだままだった。全くもって、その通りだったのである。なにかしら反撃を加えようとしばし考えた挙句、口をついて出たのは、我ながら覇気にかける一言だった。 「夢を……」 「夢?」 「夢を、見ていたのだ。美しい、良い夢だったんだぞ」 ほう、と風読みは感心するともからかうともつかぬ口調で相槌を打つ。私は、半ば自棄になって先を続けた。 「照明の当たった舞台の上で、ピアノを弾く夢だ。しかも、ただのピアノじゃない。どこもかしこも氷でできたピアノなんだ。周りでは、蝶や蜻蛉たちが羽を打ち鳴らして拍子を取っていてな、その中で、鍵盤の上を転がって一曲奏でてきたというわけだ。しかし、いかんせん照明が強すぎた。おかげで、次第にピアノが溶けてくる。やがて、足の一本がぽっきりと折れてしまった。それでも、手拍子は鳴り止まない。傾いた鍵盤の上を滑り落ちながら辺りを見回すと、そこはいつの間にか見覚えのないどこかの街角になっていて、子どもらが大勢手を叩きながら鬼ごっこをしていた」 「鬼さんこちら……か」 しわがれた声で、風読みが口ずさむ。 「走り回る子どもたちは、私になぞまるで気付かない。気付かないまま、無闇と駆け回る。ああ踏まれる……というところで目が覚めてみれば、こんな場所にいたというわけだ」 「こんな場所とはとんだ挨拶だな。ここは、屋根裏部屋だ。ちいとばかり陰気なところではあるが、この屋敷の中で屋根についで空に近い場所だぞ?」 空に近い場所。私は、その響きを噛み締めるように小さく復唱した。風読みに言われるまでもなく、地面に近い暮らしを常とする我々にとって、空はいつも、遥か遠い場所だった。むろん、与えられた生き方に不満を抱いたことなどない。しかし、空という一言は、私の胸の奥深くに眠る羨望を、針のようにつついた。あの虹を渡ってみたいと駄々をこねる子どものような憧れを、呼び覚ました。気付けば、私はいっそ無邪気なほどの熱心さで問い掛けていた。 「おい。あんたは、この屋敷の風読みだったんだろう?」 「……ああ」 答えるまでに、一瞬の躊躇いがあったようだったが、特に気にもせず、私は畳み掛けるように続けた。 「だったら、屋根の上からずっと地上を見下ろしてたんだろう? あの空の上から見たこの屋敷では、どんなことが起こっていたんだ?」 きいきいと鈍い音を立てて、風読みが体を揺らす。まるで、いやいやでもするような動きだったが、むろんそこに風読みの意志など働いているはずもない。奇妙に長い空白の後、風見鶏は諦めたように溜息をついた。 「……まあ、良い。ここで会ったのも、何かの縁じゃろう。……そうだな。では、鬼ごっこの話でもするとしようか」 渋々といった風を取り繕ってはいるが、存外満足げな声音で、老いた風読みは語り始めたのだった。 「この屋敷は、今でこそ住む者もなく閑散としておるがな、しかしかつては大勢の人間で賑わっていた時代もあったのだ。特に夏の休暇にはな、屋敷の主が親戚やら友人やらを招いて、まあ豪勢な宴が開かれたものじゃ。そういう折には、大人たちだけでなく子どもたちもたくさんこの屋敷にやって来た。……なんじゃ、しかめ面をして。ああ、そうか。お前は子どもが嫌いなようだな。……なに、嫌いなわけじゃない、苦手なだけだ、と? ふん、同じことだろう? まあ、お前のように小さいものには、それも致し方あるまいが。 話が逸れてしまったな。……そう、夏休みの子どもたちだ。この屋敷に連れてこられる時、子どもらはみんな一張羅を着て澄まし込んでいた。お招きにあずかり光栄です、なんて舌を噛みそうになりつつ挨拶したりな。昼間に遊ぶ時でも、木陰で詩集を読むだとか、レース編みをするだとか、それから……ほら、何と言ったか。女王だの騎士だのを象った駒を使う、西洋の将棋で……ああ、そうだ、チェスだな。盤は大理石、駒は象牙製で、目には色とりどりの宝石が埋め込まれた、それはまあ豪華絢爛たる造りだったものよ。その、チェスだとかな、最初の内は、そういう遊びをしておった。まあ、大人たちがそう仕向けたんだろうがな。 しかし、子どもというのは正直だ。そんなお行儀の良い遊びには、すぐに飽いてしまう。結局は、大人たちの思惑なんてどこ吹く風で、やれ鬼ごっこだそれかくれんぼだと、庭中を駆け回っておったな。夕方、とっぷり日が暮れるまで遊び回って、夕食の合図と共に慌てて形ばかり並べておいたチェス駒だのなんだのを片付けるわけだが、しかし毎回、必ずいくつかぽろりと零れてしまう駒がある。子どもらは、そんなことには気付かない。気付かれないまま、夜になってしまう。忘れられた駒は、庭に転がったままだ。そして、やがて屋敷中が寝静まった深夜……。 ……なんだ。早く続きを話せ、だと? ふん、お前には、間合いの取り方というものが分からんのか。こうして、聞き手の期待を高めてやろうという演出じゃないか。なに、そんな小細工はいらん、だと? 全く、無粋なやつだな。ああ、ああ、分かった分かった。続きを話すから、少し黙っていろ。 ……そう、深夜だ。鳥は夜目が利かんと言うが、わしは風見鶏だからな、真夜中だろうと庭の様子は手に取るように分かる。草木も眠る丑三つ時……という頃だ。何気なく庭に目をやるとな、なにか小さいものが動き回っている。初めは、不思議だとも何とも思わなかった。蛙でも跳ねているのかと、そう思っていたからな。しかし、よくよく眺めていると、その動き方は跳ねるというよりも走り回るといった風だ。目を凝らしていると、ようやっとその正体が分かった。……チェスの駒だ。子どもらがしまい忘れたチェスの駒が、駆け回っておるんだ。それも、ただただ動き回っているわけではない。ひとつの駒が、他の駒を追いかけて、ちょうど鬼ごっこでもしているようなんだな。恐らく、昼間子どもらが遊ぶ様を見て、真似てみたくなったんだろう。 夕暮れ、子どもらの姿が庭に見えなくなった時には、人気のなくなった庭にぽつんぽつんと取り残されたチェスの駒たちが、気の毒に思えたもんだが、しかし彼らもあれでなかなか楽しんでおったのかもしれんな。狭苦しいチェス盤の上を行ったり来たりするだけでは、彼らも退屈だったんだろうて」 おしまい、とでも言うように風読みはひとつ息をついた。しかし、私にはどうしてもひとつ、尋ねておきたいことがあった。 「なあ、風読みよ」 「なんだ? 希望通り、わしが見聞きしたことを話してやったじゃないか。文句はあるまい?」 「いや、そういうわけではないのだ。その、チェス駒だが、今もこの庭で遊んでいるのか?」 だったら、一度会ってみたいものだと、そう思ったのだ。風読みは、小さく鼻を鳴らし、素っ気なく言い放った。 「いや、今はおらんだろうよ。夏が過ぎれば、チェス駒たちも、招かれた子どもらと一緒に元の家へ帰っていったからな。片付けたのは大人たちだ。よもや、駒を拾い忘れたりはせんだろう。……それより、おい、十六世よ」 「十九世だ。いい加減に呼ぶな」 「ふん、何世だろうがわしには関係ないだろう? そんなことより、だ。もうじき、空が荒れるぞ、十三世。お前が吹き飛ばされた風も、恐らくは嵐の前兆だ。悪いことは言わん。しばらくは、ここで大人しく風が過ぎるのを待て。でないと、またどこへ吹き飛ばされるか分からんぞ」 そう言ったきり、風読みは沈黙した。風見鶏も眠るものなのか、私は知らない。しかし、ゼンマイでも切れたかのようにぷっつりと言葉を無くしたその姿は、眠っていると表現するに相応しかった。 「手の鳴る方へ……か」 小さく呟いてから、私は風読みの背から這い下りた。どこか、風除けになるような場所を探さねばならない。何かと気に食わぬ相手ではあるが、風を読むことにかけては、やはりその言葉に従った方が良いだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() 進む→ 創作品へ 入り口へ |