「月花蝶舞―月ノ花ニ蝶ノ舞ウ」



 革靴の底が落ち葉を踏みしめる乾いた音だけが、辺りに響いていた。時折、思い出したように聞こえる小鳥のさえずりが鋭く静寂を切り裂くものの、一瞬後には素知らぬ顔の沈黙が戻ってくる。風が無いため、木の葉が揺れる微かな音すらもしない。自分の立てる足音が、いささか無遠慮に聞こえる程の静けさだった。
 スケッチブックを抱え直しながら、穂波は黙々と先を急いでいた。彼の歩くこの小道は、学校の敷地内にある小高い丘陵をぐるりと迂回する形で作られている。丘を突っ切るルートに比べ、かなりの遠回りにはなるが、穂波はこの行程が気に入っていた。いつも、しんと静まり返っていて、誰かとすれ違うこともない。

 遠くから誰かに名前を呼ばれたような気がして、彼は足を止めた。声の聞こえた方に目をやると、丘陵の頂上あたりに、小さな人影が見える。穂波が振り向いたのに気付いたのか、その人影はもう一度彼の名前を呼び、飛び跳ねんばかりの勢いで大きく手を振る。この静かな場所で、あんな場違いに明るい声を出すような人物は、ひとりしかいない。穂波は軽く苦笑しつつ、片手を上げてみせた。
「穂波!」
 転がるように丘を駆け下りてきた媛野は、息を弾ませつつも満面の笑みを浮かべた。
「久しぶりだね。元気だった?」
 媛野の言葉に、大げさだな、と穂波は更に苦笑した。久しぶり、と言っても、試験期間だった一週間ほどの間、顔を合わせなかっただけだ。
「元気だよ。媛野は? しばらく休んでたみたいだけれど」
「うん。急に寒くなったから、ちょっと風邪をひいただけだよ。月下美人がもうすぐ咲きそうだったからね、ベランダで寝起きしてたんだけど」
 穂波は小さく溜息をついた。冬と呼ぶにはまだ早いが、朝晩はもう充分に冷え込むのだ。そんな酔狂な真似をしていたのでは、風邪をひいても当然だろう。媛野らしいといえば、あまりにも彼らしい理由ではあるが。
「それじゃあ、試験は? ちゃんと受けたのかい?」
 訊ねると、媛野は何も答えないまま、叱られた幼子のように俯いてしまう。その仕草が、なによりも雄弁な答えだった。もう一度吐息を零し、媛野、と穂波は眉を吊り上げてみせる。
「君は、なにかに夢中になるとすぐそうやって他のことを何もかも放り出すんだから」
 頷いた媛野は、そのまま更に深く項垂れてしまった。目を伏せ、ごめんなさい、とほとんど泣き出しそうな声で呟く。ひどくしょげた風の彼に、少しきつく言い過ぎたかと、穂波は口調を和らげる。
「まあ……、具合が悪かったんなら仕方ない。その代わり、ちゃんと復習しておくんだよ。僕も付き合うから。いいね?」
「……うん」
 穂波の言葉に、媛野はようやっと顔を上げた。さっきとはうってかわって、晴れ渡るような笑顔を見せる。そんな彼を促して、穂波は再び歩き始めた。

 穂波は、一年ほど前から美術部に所属している。部、とはいっても、部員は彼と媛野のふたりだけ、あとは顧問である女性教諭がひとり、という極めてこじんまりした集まりだった。しかし、部室として使われているのは、木造りの小屋丸々ひとつなのだから、随分と贅沢なものだ。その部室は、学校の広大な敷地の中でも一番外れに建てられている。そのせいか、部の存在自体、生徒たちにはほとんど知られていないようだった。実際、現在の部員である穂波にしろ、偶然美術室で顧問の先生に声をかけられなければ、卒業までこの学校に美術部があることに気付かないままだったかもしれない。
 あなた、絵を描くのね。あの時、初めて顔を合わせたはずの穂波を前に、先生はそう断言したのだった。

 あれは、ちょうど今日と同じようにそよとも風の吹かない静かな日だった。前日までは夏の名残の陽気が続いていたというのに、その日は一足先に冬が忍び寄ってきたかのような肌寒さで、慌てて厚手の衣類を引っ張り出したことを、穂波はよく覚えている。
 昼休みの美術室、午前中の授業で置き忘れていった黒ペンを取りに戻った穂波は、そこで思いがけず先客と出会い、少々困惑した。艶やかな黒髪を項の少し上あたりで結い上げたその女性は、穂波が乱暴に戸を引き開けた騒音に、つと振り向いた。白いシャツに留め付けてある開いた本を象った胸章は、穂波たち生徒のものとは異なり、金メッキの施された教員用である。彼女の右手には、穂波が探していた黒ペンが握られていた。
「……あの、そのペンは」
 口ごもる穂波に、見知らぬ先生は軽く首を傾け、自分の手元に目をやった。そして、黒いロングスカートの裾を揺らしながら、穂波のすぐ目の前まで歩み寄った。
「これ、あなたのなのね」
 す、と差し出されたペンを無言で会釈して受け取り、穂波はそのまま立ち去ろうとした。
「ちょっと待って。あなた……」
 背中にかけられた声に、穂波は足を止めて振り返った。こちらをしげしげと見つめ、先生は心なしか口元を綻ばせたように見えた。
「あなた、絵を描くのね」
「……え?」
 今度こそくっきりと笑みを浮かべると、先生は黒板に近づき、白のチョークでなにやら描き始めた。
「ねえ、あなた、美術部に入る気はないかしら。まだ部員はひとりしかいないけれど、その分、好きな絵を気楽に描くことができるわ。興味があるなら、放課後部室に来てみて頂戴。たぶん、もうひとりの部員も来るはずだから。……はい、これが地図よ。分かりにくい場所にあるから、迷わないように気をつけて」
 指し示された黒板上の地図に、穂波は素早く目を走らせた。大体の場所は、すぐに分かった。しかし、こんなところに建物などあっただろうか。
「そうそう、言い忘れていたけれど、美術部の顧問は私です。……それじゃあ、またあとで」
 ひらりと一度手を振ると、先生は美術室を出て行った。後に残された穂波は、地図に書き添えられた端正な文字を眺めながら、まるで自分が訪れることを確信しているような口調だったと、ぼんやり考えていた。

「……そうだ、穂波」
 数歩先を跳ねるような足取りで歩いていた媛野の明るい声に、物思いから呼び戻された穂波は、軽い時差を感じて数度瞬いた。
「先生がね、今度の学展に出す絵のモデルを、穂波に頼みたいんだって」
 僕に? と穂波は首を傾げる。
「でも、確かモデルには君がなるんじゃなかったのか?」
「うん。最初はそうだったんだ。でも、先生が言うにはね、僕は絵のモデルになるには、ええっと……、そう、刹那の存在だから、って」
 なるほど、と穂波は内心深く納得する。まるで万華鏡のように、一瞬一瞬でくるくると表情を変化させる媛野を、静止した一枚の画面に捉えるのは至難の業だろう。今も、穂波の視線より少し低い位置にある青みがかった瞳は、瞬きする度微妙に色を変えて見えた。その瞳を賞して、まるで真昼の湖面のようだと例えた画家もいた程だ。あれは、いつのことだっただろうか。
「確かに、そうかもしれないな」
 呟いた穂波を、媛野は不思議そうに見返していた。

 媛野は、小柄な少年である。穂波自身も目立って上背のあるほうではないが、その彼と並んでまだわずかに見上げる格好になる。それが、無邪気な言動とも相まって、媛野は実際の年齢よりもはるかに幼く見えた。穂波よりふたつ年下の彼は、今年で十五になったはずだったが、寒さのせいで頬や鼻の頭を赤く染め、毛糸の帽子を目深く被った横顔は、せいぜい十かそこらの子どものようでもある。
「先生の絵のタイトルは、確か……」
「月下の芽吹き、だったと思う。どういう意味なんだろうねえ」
 目を伏せるようにして考え込んでいた媛野は、何かを思いついたらしく、くるりと穂波に向き直った。
「ねえ、穂波。今度また、僕の絵のモデルになってくれないかな」
 それはいいけれど、と答えつつ、穂波はおどけて軽くしかめ面をしてみせた。
「前みたいに、アゲハ蝶を描いたりしないでくれよ。あれじゃあ、モデルを立てる必要なんてない」
「違うよ。あれは、ちゃんと穂波を描いたんだ。だってほら、穂波の目は、あんな色だから」
 言いつつ、媛野は至極真剣な表情でじっと穂波の瞳を覗き込んだ。
「前に、同じような茶碗を見たことがある。釉薬の加減でね、最初はただ黒光りして見えるんだけど、手に取って光に当ててみると、螺鈿細工みたいにきらきら光るんだ。初めて穂波に会った時、ああ同じ色だと思った」
 アゲハ蝶の次は、茶碗ときたか。澄み切った媛野の瞳に、困ったような微笑を浮かべた穂波自身の姿が映りこんでいる。その自分の表情に、微量ながら苦いものが混ざり込んでいる気がして、穂波はわずかに狼狽した。その動揺を敏感に察したのか、媛野が訝しげに眉を顰める。
「穂波? どうかした?」
「……なんでもない。行こう」
 媛野の視線から逃れるように目を逸らし、穂波は足を速めた。



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