「コペルニクスと回転する世界」 ![]() ![]() ![]() ![]() 毎晩、零時をわずかに過ぎたころに通る列車の汽笛は、冷たい空気をつらぬいて高く長く響いた。いくつも連ねられた貨物車両が去ったしばらく後も、その余韻は肌を撫でるほどの存在感とともに残る。 ふと口に出したら、隣で友人が笑った。 センチメンタルだね。物語の出だしにいいんじゃないか。 もう言ったことさえ覚えていないだろうけれど、助言に従い、この話はそのように始めることにする。 「汽笛の音は物悲しい気分を呼び起こす」 言葉にしてしまってから、僕は気恥ずかしくなった。 僕達の住んでいる《ドーム》は街の中心部から少し離れたところに位置している。そのもっとはずれ、平原との境すれすれのところに線路は敷かれていた。一日に通る列車は二本、早朝に昇る太陽めがけて走るものと、日付が変わる頃に星が沈む方角へと追いかけていくもの。街の境界を越えてから駅へと滑り込む間の、ちょうど《ドーム》から遠くないあたりで、列車は必ず汽笛を鳴らす。まるで破られることのない約束のように。 僕らはいつも初めの汽笛をベッドの中、まどろみと目覚めの狭間で聞く。終わりの汽笛はその逆だ。その合図で、僕らは喋るのをやめ、読んでいた本に栞を挟み、ランプを消した。何があろうとなかろうと、一日には休止符が打たれ、来るべき明日のためにすべては眠りの柔らかな腕にゆだねられた。 僕と同室のルダだけは、その前に一つだけしなければならないことがある。窓際のベッドを確保した彼は、夜の汽笛が響くなり、毛布の中から手を伸ばして窓を細く開けた。 「おかえり、コペルニクス」 挨拶に応えて、小さな黒猫が部屋の中に滑り込んでくる。しばらく確認するようにルダのベッドの上を歩き回ってから、コペルニクスは枕の横から毛布にもぐった。ルダの側で落ち着いて丸くなれる場所が見つかるまで、ルダの横で尻尾や脚を動かす様子が動く毛布の小山からわかる。 「じゃあ、おやすみ」 言いながら、僕がいつもどおりにランプを消そうとすると、「ちょっと待って」とルダが制止の声をあげた。枕元の時計を見て、きちんと上半身を起こす。毛布をはぎとられたコペルニクスが、迷惑そうに緑の目を瞬かせた。 そうしてルダはおもむろに口笛を吹きはじめた。 Happy Birthday to You, Happy Birthday to You…… 誰もが知っているあの曲だ。 三回目のBirthdayの高音部で音がひっくり返ったほかは失敗もなく、吹き終えたルダはしかつめらしい顔を作った。 「誕生日おめでとう、イレク」 「ありがとう」 年齢をひとつ重ねた途端に贈られた祝いの言葉は、くすぐったいような嬉しさを連れてきたが、僕はわざとそっけなく礼を言った。 「なんで口笛なの?」 「音痴だから」 「口笛だとメロディを間違わないわけ?」 「さあ。歌うよりましな気がする」 結局出せない音があるから同じかもしれないけれど、とルダはまじめに答えてから、部屋の隅を指差した。 「プレゼントもある。地球儀」 「でもあれは」 僕は慌てた。 特技といえば、世の中にいろいろなものがあるだろうけれど、ルダの特技は一風変わっていた。彼の才能は、物を拾うという分野に遺憾なく発揮される。つまり、率直に言ってしまえば、ごみ漁り、なのだ。 しかし、ルダのために補足説明しておくと、ごみという言葉から想像されるような陳腐なものを彼は持ち帰らない。どうして前の持ち主はこれを手放したのだろう、と首を傾げてしまうものばかりを見つけるのだ。そんなわけで実は、この部屋にある調度の大半はルダの拾得物だった。わずかに軋むけれど座り心地のいい揺椅子や、琥珀の塊のような色の燈を点けるランプ、青い塗装が少し剥げただけで性能にまったく障りのないラジオ。きわめつけがその地球儀だ。 天然木で出来たそれは、二階に運ぶのに《ドーム》の仲間五人がかりとなったほど重い。赤みがかったつややかな表面に、大陸から諸島まで様々な陸地が浮き彫りにされている。大きさはといえば、僕とルダが向かい合わせになって伸ばした腕で作った輪より一回り小さい程度だろう。真ん中の、つまり球体の円周が一番長いところを囲むようにして、土星の輪のような枠がついている。そこからキャスター付きの脚が四本伸びているのは、これがオブジェとしての役割だけではなく、本当は移動式のバーとして作られたものだからだ。枠のところで地球儀は半分に割れて、南半球が箱、北半球がその蓋となる寸法だ。ルダが発見したときには、アルコールの空瓶もオリーブの一個も残っていない、空の状態だったけれど。 ルダはもちろん、呼ばれて駆けつけた僕も、即座にそれが気に入った。運び入れたら部屋が狭くなることなど気にも留めなかった。《ドーム》の友人の助けを借りて持ち帰った後は、ルダはニスと磨き布を買ってきて暇さえあれば地球儀を磨き、おかげで現在、その表面は猫の背中のようになめらかだ。 「貰えないよ」 「いいんだ、イレクだって気に入ってるじゃないか」 指摘されて、僕は断り文句に困ってしまった。確かに僕は考え事をしている際など、気付けば無意識にその感触を楽しみながら地球儀を回していた。しかし、自分が気に入っているからといって、ルダの宝物を横取りするような真似はしたくない。ルダはそんな僕には構わずに、また寝床にもぐった。 「貰ってほしいんだ、どうせ持っていけない」 「持っていくって、どこに」 訊くと、ルダは毛布から顔を上半分だけ覗かせた。 「《オリエント》」 「オリエント……ってあの、東の果ての?」 うん、と答えて、ルダは観念した顔でうつ伏せになった。頬杖をついて、もう片手で前髪をかきあげる。落ち着いて眠れないコペルニクスが床に下りて、僕達を不満げに眺めてから部屋の隅においてある平皿の水を飲みに行った。 「この前、数学コンテストで優勝したから。内示が出たんだ。とりあえず一年間、向こうに留学する」 「いつから」 「二日後」 「……すぐじゃないか」 「そう、すぐなんだ」 「大丈夫なのか?」 「何が」 「だって、あれだろ、《オリエント》っていえば、魔法じゃないか」 「その勉強をしに行くんだよ」 理論とか、発声学とか、とルダは指折り数えた。 遥かなる《オリエント》は、謎に満ちている。肌の色も言語も異なる人々の住む彼の地をつかさどる原理は魔法。それこそが機械を動かし、不可能を可能にし、生活の基盤を形作るという。あらゆる情報が伝聞形でしか運ばれてこないのは、こちらと《オリエント》を繋ぐものが二つしかないからだ。間を横たわる平原の上を駆け抜ける風と、それよりはもっと遅いペースながら確実に進む日に二度の定期列車。その列車さえも、《オリエント》に入ったところで、先に進むために動力機関の取り替えを余儀なくされるという。 嘘とも真実ともつかぬ噂に取り巻かれたその土地は、これまで限りなく閉ざされた場所だった。それが何の拍子か、お互いに留学生を送りあう協定が結ばれたことは知っていたが、誉れあるその第一期生が誰あろう、僕のルームメイトだったとは。僕はどう反応していいかわからないほど驚いた。 「ルダが、魔法使いになるとは」 「まだそうとは決まってない」 「……てっきり科学者になるのだと思ってた」 数学の定理や物理の法則の理路整然とした美しさを愛する彼が、魔法のようなものに興味があるとは想像もつかなかった。呆然としたままの僕がそういった意味のことを告げると、ルダは戻ってきたコペルニクスのために毛布を持ちあげてやってから、説明のための言葉を探した。 「向こうでは、天動説を信じるっていうだろう」 「世界が平らで、天体が周りを動いているっていうやつ?」 「そう。僕達は地球は球体で、そして太陽の周りを回転していると信じている。信じているというよりも、それは知っていて当然の真実だ」 そこでルダは自分の発言を反芻してから、先を続けた。 「日が昇って、日が沈む。朝になって、夜になる。一日が過ぎる。それはまったく同じだ。僕達はそれが地球の自転によるものだという。彼等は天が動くからだという。まったく違う原理を信じていても、文化は同じくらいの発展を遂げている。それはどうしてだろう、と思う。そこにこそ、この世界の原点のようなものがあるんじゃないか、とも。どこで何を信じていても、異なった教育を受けていても、地球上に生きている限りは誰にでも通用する何かが。全世界に共通する、真理と呼んでもいいような、絶対的なものが」 それが知りたいんだ、とルダは言った。 「向こうからの視点も理解できたら、それに一歩近づけるような気がする。……でも結局はただ単に興味からかもしれない。魔法とはどんなものか、自分の目で確かめなくては気が済まないんだ」 言い終えてちょっと笑ったルダの顔を見て、僕が思い出したのは全然別のことだった。きっと地動説つながりで記憶の底から浮かび上がったのだろう。何年か前、ルダがコペルニクスを連れてきた日のことだ。 拾った、とも、飼いたい、とも彼は言わなかった。自明の理を述べるような口調で、ただ一言とともに黒い仔猫を指し示した。 『この猫の名前はコペルニクスだ』 「この猫の名前はコペルニクスだ」 呆気にとられた僕を見て、まるでおぼえが悪い生徒に九九を教える時のように、ルダは微笑を浮かべたまま繰り返した。部屋に戻った途端、そんな台詞で出迎えられた僕はとりあえずベッドに座り込んだ。 「それはわかった、けど、ここはペット禁止じゃないか」 「それは問題ない」 あっさり言ってのけた彼が恐ろしいのは、本当にどうにかしてしまうところだ。これまでの経験から充分学んでいた僕は、それ以上追及しなかった。ルダの腕の中で、痩せこけた仔猫はヤニだらけの目を薄く開いて、また閉じた。明らかにコペルニクスは栄養失調だった。揺らめく命の灯火を守ろうと不可視の敵に一匹で闘いを挑んでいるのだろうが、勝算がほとんどないことは明らかで、僕は思わず眉間に皺を寄せた。 「イレクは猫嫌いか?」 「いや、好きだよ」 「それはよかった」 仔猫を抱いたまま、ルダは視線を巡らせた。 「じゃあまずタオルを取ってくれ。……粗相をされた」 その宣言にはじまり、コペルニクスが勝利を収めるまで、ルダは出来る限りの助勢をした。ルダだけでは手一杯の時には、僕も。 そうして成長したコペルニクスは、人間ばかりに育てられたせいか一風変わった猫になった。夜の汽笛が鳴る頃に僕等の部屋に戻って、ルダの隣で眠る。朝は餌を食べてから学校へと向かう僕達と共に部屋を出る。賢いといってもいいのかも知れないが、僕等に都合のいい規則正しい行動を取ることは、猫として正しいことなのか僕にはわからない。現在でも、幼い頃の栄養不良がたたって、コペルニクスはかなり小柄だ。きっと人間に面倒を見てもらわなければ、生きていけないだろう。 「頼みがあるんだ」 黙りこんでいた僕に、ルダは声を掛けた。 「僕がいない間、コペルニクスの世話をしてくれないか」 ちょうど考えていた事への言及に、僕は今夜何回目になるかわからない驚きを体験した。それを押し殺して、わざと渋面を作ってみせる。 「……最後まで面倒を見られないなら、最初から拾うべきじゃない」 「これは、手きびしいな」 ルダはふざけた様子で言ったが、困惑した表情が口調を裏切っている。僕を説得するために頭を一生懸命回転させているのが見えるようだ。彼の無駄に良い頭脳でも、こういう局面ではあまり役に立たないらしい。何も知らないコペルニクスが喉を鳴らす音が聞こえた。 「一ヵ月後に迫った僕の誕生日に免じて、とか。プレゼント代わりに」 「いいよ。冗談だよ。しかもあんまりうまくない」 言うとルダは眉をしかめた。文句をつけたいが、それで僕が腹を立てたらすべてが水泡に帰してしまう、とこらえる様子が可笑しくて、僕は他の住人を起こさぬように声を殺して笑った。 「なんだよ」 「猫に名前を付けてしまうほど、地動説の提唱者に心酔しているのに《オリエント》でうまくやっていけるのかと思って」 彼の留学について話していたことを思い出して、僕は気付かれないように会話を元に戻した。 「違う、オマージュとかじゃない、そうじゃなくてもっと……」 むっとしたように言いかけて、ルダは悪戯を思いついた時のように唇の端を上げた。 「さっきの台詞だけど。センチメンタルだね」 記憶をたどって、今度は僕が顔をしかめた。汽笛についての言及だ。聞いていなかったかと思ったが、しっかりと憶えてさえていたらしい。 「物語の出だしにいいんじゃないか」 僕が物語を書くということを知っているのは、ルダだけだ。これまでずっとひた隠しにしてきた。理由は簡単、恥ずかしかったからだ。あれこれと想像し、紙の上に自分の夢想を書き記していくことが好きだなどと、とても人には言えない。ルダにだって知られた時は最悪の反応を予想した。もしもそれに少しでも近い反応を彼が示したとしたら、僕は物心ついた頃から続く友情を一方的に打ち切っただろう。 つまり僕は大変厄介な人間なのだ。 汽笛に呼び起こされるのは、さびしい、と言い切れるほど強い感情ではない。うまく表現できるほど大きな感情の揺れではない。ただあの音が聞こえると、ひとりだ、と思う。どうしようもなく、ひとりだ。 天地の間を一直線にひた走る列車は、星へ届けとばかりに汽笛を響かせる。誓いのように、合図のように。それでも、受け取ってくれる者がいなければ静寂に消えていくだけだ。それは、僕だ、僕だ、と懸命に叫ぶのにも似て。 時にはまったく逆に、あの汽笛が鳴らされているのは誰のためだろう、とも考える。きっと他の誰かへの挨拶、それを受け取るだけの価値のある誰への。そして、それは僕ではない。 何の意味もない音ひとつに、揺さぶられる。いろいろと想像してしまう。そうするのが習い性の癖に、それを隠そうとする。 「物語の謎は、そうだな……」 勝手に喋り続けるルダを、僕はどうにか押しとどめようとした。 「僕にはミステリーは書けないよ」 トリックが考えられない、と弁解すると、ルダは意外にも真剣な顔で僕を見た。 「どんな物語にも謎はあるんだ」 ある人物の一日を追った物語だとしても、どうして主人公は出掛けたのか、とか、どうして怒りをおぼえたのか、とか。どうして彼は窓の外を眺めたのかとか、彼女はどんな夢を見ているのかとか、猫が何を考えているかとか。 「世界は謎に満ちている。気付かないだけだ」 たとえば、と僕のルームメイトは言葉を紡いだ。 「どうしてこの猫はコペルニクスという名前なのか」 名前を呼ばれて、毛布からわずかに覗く黒猫の耳がぴくりと動いた。 「僕はその理由を知っている。名付けたのは僕だからね。でも君はそれにどんな解答を与えてもいい。自分なりの答えを創りだせるじゃないか。……君にはそれが出来るんだ」 僕が物語を書いていると知った時、ルダが口にした言葉の意味がやっとわかった。枕に顔を半分埋めて、僕はランプの柔らかな光に照らされた部屋を眺める。あの日もここは居心地の良い雑然さに満ちていて、その様子は今とまったく変わらなかった。 『答えを創ってるんだね』 「答えを創ってるんだね」 「うん?」 僕は唸り声のようないい加減な返事をした。秘密を知られたショックを処理するのに夢中で、あまりルダの言葉に耳を貸していなかったのだ。思い悩むうちに襲ってきた暴力的な睡魔に抗うのも、もう限界だった。 「いつか、読ませてほしいな」 僕の表情を見て、「いつかでいいから」とルダは慌てて繰り返した。いつか君が見せてもいいと思ったら。そんな物語が書けた時に。 「わかった」 言いながら僕は寝返りをうち、頭から毛布をかぶった。寒気のような緊張感と、期待とも怖れともつかない気持ちも、眠りが訪れるにつれて波が引くように失われていく。 意識を手放す直前、『いつか』はいつ訪れるのだろう、と思った。 それからもずっと少しずつ物語を書き溜めていたけれど、ルダにも誰にも見せたことはない。『いつか』は僕にとって、まだ未来の時点だ。 「そろそろ寝ようか」 ルダはそう言って、僕の返事を待たずに明かりを消した。途端に広がる暗闇の中、窓から差し込む微かな星明りを反射してコペルニクスの目が光る。僕はそれを目印に彼の方を向いて、本当はもっと先に言わなければいけなかったことを声に出した。 「ルダ」 「何」 「おめでとう」 ありがとう、とルダが答えてから、あくびするのが聞こえた。 「来年の今頃には戻るよ。イレクの誕生日は……どうにかする」 「どうにかするって何を」 僕の質問には、寝息だけが返ってきた。 そうして、その後汽笛が二回響く間にルダは荷造りを終え、まるで嵐が通り過ぎたような有様の部屋には僕とコペルニクスだけが残された。彼が乗りこんだ列車が三回目の汽笛を鳴らして遠ざかるのを、僕は生まれて初めて駅から見送った。ルダが物悲しい気分になったかどうか、僕は知らない。 コペルニクスと僕はといえば、お互いしかいない緊張感に慣れるまでしばらく時間がかかった。猫は最初僕の寝床にはもちろん、近くにさえ寄ってこなかったし、恋の季節には何日も帰ってこなかった。ようやく戻ったと思えば、がつがつと餌を食べ、また憑かれたような目で飛び出して行った。 僕はその間に、窓からいつも外を眺めている貴婦人の話を書いた。それから同じ夢ばかりを見る少年の話を書いた。日々はめまぐるしく過ぎていった。雪の消えた平原に緑萌える春、地平線の彼方から入道雲が湧きあがる短い夏、黄金色に輝く草の波が風に揺れる秋。寒くなるにつれ、黒猫は僕の寝床にもぐりこむようになった。 本当に、どんな物語を書いても、かならずそこには謎があった。書くということは、それに僕が僕なりの答えを与えることだった。それにより世界は定義され、その通りに運行した。 世界には二種類あるのだ。自分の内側と外側に。内側の世界は、僕によって支配されている。外側は、それこそルダの追い求めるような真理で。二つはまったく別のものでもあったけれど、密接に繋がっていた。 僕は自分が知らないことについては書けなかった。たとえ地球儀をくるくると回して見知らぬ地に思いを馳せ、その描写を作り上げたとしても、いつも自分の知識や経験が地下水脈のように、大気のように、見えなくてもそこに存在していることを認めないわけにはいかなかった。 それでも、いや、それだからこそ、僕はルダの残した謎の答えがわからなかった。何度も挑戦しては、最初の一文で挫折した。そのうちに、僕は他の物語を書くことも出来なくなった。まるで世界が静止してしまったかのごとく。 『どうしてこの猫はコペルニクスという名前なのか』 僕は消燈前のわずかな時間を机に向かって過ごす。 こんな呼びにくい、実在した人物の名を選んだ理由。ルダのことだ、尊敬の意を示しているのではないということは、きっとシンプルな訳があるのだ。事実に基づいた、単純明快な。 最初は顔が似ているのかと思ったが、違った。といっても人間のコペルニクスの写真などないから、本の挿絵と比べるしかなかったわけだが。調べた結果わかったのは、コペルニクスが天文学者かつ聖職者その他もろもろであったこと。肉眼による天体の観測とギリシャ思想に基づいて地動説を唱えたということ。これは、当時の天動説を信じていた人々の思想に大打撃を与えたらしい。それをもとに『コペルニクス的転回』という言葉が作られたくらいだ。 ルダは大丈夫だろうか、とふと思う。見知らぬ土地に一人飛び込んで、今までの常識からかけ離れた環境で暮らして。《オリエント》との間では私的な手紙のやりとりは不可能だから、彼がどうしているか知る術はない。心の片隅にルダの事が気泡のようにあらわれるたびに、僕はそれを打ち消した。強いて考えないようにした。 時間的な、もしくは地理的な距離が増加するにつれ、人々の間には周波数の合わないラジオのような雑音が混じる。共通の話題が減れば、何を喋ればいいかわからなくなる。履修する科が違うから、ここ二、三年は朝と夜にしか平日は顔を合わせなかったけれど、それでも家族のいない僕等にとって、お互いは実際に血を分けた親族より近しかった。 『……最後まで面倒を見られないなら、最初から拾うべきじゃない』 僕があんなことを言ったのは、コペルニクスのためではなかった。ただ単に僕が嫌だったのだ。置いていかれることが。認めたくはなかったが、僕はさびしかったのだ。 さびしさと眠気はとても似ている。どうしようもないときに襲ってくる。 この一文は何かに使えそうだと目を閉じて思った。 文章を書く者の業はどこまでも深い。自分の感情を素直に表現しているのか、それともより効果的な表現を模索するために自己暗示を掛けているのかわからなくなる。 違うのは、眠気には睡眠という即効薬があるけれど、さびしさには解決法がすぐには見当たらないところだ。とりあえず寝ようか、と考えたところで、窓枠を引っ掻く微かな音に僕は立ち上がった。 早めに帰って来たコペルニクスが窓の外からこちらを見つめている。そうしているとまさに、暗闇の中で黒猫を探す、という慣用句を具現化したようだ。 コペルニクスは、夜の切れ端のような猫だ。 『コペルニクスは、夜の切れ端のような猫だ。』 とりあえずそれだけをノートに書いて、僕はペンをおいた。 その一文しか書けなかった。 影の、と言ったほうがよかっただろうか、と考えて、やはり夜が適切だという結論に達した。コペルニクスの喉元には小さな白い毛の斑があって、それがちょうど三日月の形をしている。 外の大気は耳鳴りがするほど冷たかった。寒波がふたたび到来するようであれば、明日は出さない方がいいかもしれない、と黒猫を見やると床の上でせっせと身繕いしている。 僕の視線に気がついたのか、ニャオン、と掠れた声でコペルニクスは鳴いて立ち上がった。そのままこちらに優雅な足取りで寄ってくる、と思ったが、急に方向転換をして地球儀へと向かう。腰を低くしてタイミングを計ってから、後脚のバネを利用して枠の上に飛び乗った。緑の目を細めて、球体の側面に身体をこすりつける。僕はまるで魅入られたようにそれを眺めていた。 そして、黒猫は前脚で当たりをつけるように数度叩いてから、地球儀を回転させつつ、その上に駆けのぼった。 地球儀を回す猫だから、コペルニクス。 青天の霹靂のように、突然落ちてきた答えに僕は自分の目を疑った。それでも、これが正解だ、と心のどこかで理解していた。 コペルニクスはバランスをうまく取り、突き出した地軸を利用して、北極の上にうずくまっている。長い尻尾の先が《オリエント》の辺りでぱたぱたと揺れた。 汽笛が聞こえた。 高く長く響く音は、近づくにつれて、ポワン、と柔らかくぼやけた。そして誰でも知っているあのメロディを奏ではじめた。 Happy Birthday to You, Happy Birthday to You…… 「…………また音が狂ってるよ」 つまずいた高音に、僕はどうしようもなくなって笑った。コペルニクスを抱き上げて窓の外を見る。青白い星々が、雪解け水のような玲瓏とした光を地上に投げている。 もう汽笛は物悲しい音ではない。 僕は、僕は、とあてどなく物語を紡ぐ自分に誰か気付いてくれるだろうか。誰か受け取ってくれるだろうか。誰か僕に合図をくれないだろうか。 『イレクの誕生日は……どうにかする』 臆病な僕の相反する願いに気づいていたのか、どうなのか。ルダは、寝言混じりの約束を守ってくれたらしい。 もうすぐ彼が帰ってくる。 書ける、と僕は思った。 つたないながらも、自分の言葉で。地球儀を回す猫の名前について、朝晩聞こえる汽笛の音について。音痴で、口笛がうまく吹けない、かけがえのない魔法使いの友人について。 『いつか』はもうすぐやって来る。 耳を澄ましても、もう汽笛の余韻はどこにも残っていない。黒猫が喉を鳴らしつつ、柔らかな肉球のついた前足で僕の胸を押した。 世界は再び回りだす。 もう書き出しは決まっていた。 『汽笛の音は物悲しい気分を呼び起こす』 このお話は、立田さまより誕生日のお祝いとしていただいたものです。 夜を走る列車の汽笛、遠い未知の場所、地球儀を回す黒猫……と、登場する鍵の全てが私の心を捉えて離さないものばかり、なのでした。しかも、バースディソング付き……! こんなにも素敵な贈り物を下さった立田さまへ、心からの感謝を捧げます。ありがとうございました! ![]() ![]() ![]() ![]() 贈答品へ 入り口へ |